きっとまた会えるよね 約束したものね

11月13日夜、母方の祖父が亡くなりました。

86歳、来年は米寿のお祝いだね、その2年後はじいちゃんの卒寿とばあちゃんの米寿でWお祝いだね、盛大にやらなくちゃねと言っていた矢先のことでした。

 

原因は間質性肺炎。9月から10月にかけて一度細菌性の肺炎で入院していて、それによる間質性肺炎の急性増悪と思われる、とのこと。これまで間質性肺炎と診断されたこともなく、9月の入院でなかなか熱が下がらず咳もおさまらないために疑いがあっただけで、血清マーカーの値も低かったため結局細菌性肺炎だと診断を受けていたのに。

でも、その細菌性肺炎が治ったと言われて退院してわずか3週間ほどで再入院、それから1週間も経たないうちに亡くなってしまいました。

 

12日、13日とコンサートに参加するために、祖父の血縁の中で唯一北海道を離れているわたしもたまたま札幌に来ていました。

13日朝、祖父の入院する病院にお見舞いに行って、じいちゃんがんばるよ、の言葉を聞いて本人に治したいという気持ちがあるならきっと大丈夫と思い、わたしは病院を後にしました。

亡くなる7時間半前、それが、祖父との最後でした。

 

容態が急変したとの知らせを受けたのはコンサート会場に向かうために病院を出てほんの1時間後のこと。一緒に参加する予定だった、チケットを持っていた友達に連絡しつつあわてて病院に戻ったら、もう意識はほとんどなくて呼吸もびっくりするくらい荒くて。

じいちゃん、じいちゃんと何度も呼びかけたけれど、荒かった呼吸がだんだん落ち着いて弱くなって、脈拍も血圧も少しずつ下がっていって、午後7時前、そのときは息苦しさとかで苦しむ様子もなく、本当に穏やかに眠るように天国へと旅立っていきました。

 

友引の関係で、お通夜は14日、告別式は15日に。

この2日間はとにかく怒濤で1日が長くて、覚えていないことも多いけれど、ただ、何度も触れた頬と手の驚くほどの冷たさと、棺の窓を閉める最後の瞬間と、火葬のとき扉が閉まるほんの最後の0.5秒くらいの景色は脳裏にしっかりと焼き付いていて。

お通夜でも告別式でも火葬場でもそのあとの繰り上げ法要でも、人間こんなに泣けるんだってくらい、体中の水分がぜんぶ目から出てきてるんじゃないかってくらいとにかく泣いて泣いて泣きすぎた2日間でした。

いつか、この2日間のこともちゃんと書き残せたらいいな。

 

* … * … * … * … * … * … * … * … * … * … * …

 

最後の最後にじいちゃんに伝えた「じいちゃん、またね」の言葉、届いたかな。

またじいちゃんの孫に生まれてきたいから、「さよなら」は言わなかったよ。

 

じいちゃんのスライドショーに使う写真を選んでいるとき、赤ちゃんだったわたしや従妹を抱っこして笑顔や照れているじいちゃんの写真が何枚もあってね、それ見てばあちゃんが「ほんとうに孫のことはかわいいかわいいってねえ、自分の子どもは一度も抱っこしたことない人なのに」って言ってたの。

そんなにたくさんかわいがってくれてありがとう。

帰省するたびにたくさんおみやげ持たせてくれてありがとう。

初任給でプレゼントしたばあちゃんとお揃いの時計、ベルトがぼろぼろになるまで使いこんでくれて、入院のときだって大事に持っていってくれてありがとう。

落ち着きのない小さいわたしを水族館に連れていってくれてありがとう。

道内のいろんな場所に旅行に連れていってくれてありがとう。

大学受験のときに朝早く雪の降る中大学まで車で送ってくれてありがとう。

大きなことから小さなことまで「ありがとう」がたくさんあるよ。

あちこち旅行行って碁を打って最近ご無沙汰なカラオケして向こうの生活を楽しんでね。

大好きなお寿司もリンゴもトマトもべこ餅もようかんもラーメンも焼きいももたくさん食べてね。

ずっと一緒だったのに急に一人暮らしになっちゃったばあちゃんのこと、ちゃんと見守ってね。

 

じいちゃん、またね、またいつか会おうね。